女川さいがいエフエム 79.3MHz:臨時災害放送局

「女川の町に正しい情報と元気を届ける放送を がんばっぺ女川」を合言葉に、毎日放送を行っています。

女川町、そして女川さいがいFMを応援してくださっているみなさまへ、女川さいがいFMのパーソナリティ・スタッフから、あらためて感謝のご挨拶をさせていただきたいと思います。

原文ママにて掲載いたします。
コメント中の時制や所属などは、コメント到着時のものです。

元高校生パーソナリティ 大平直人(おおひら・なおと)

女川さいがいエフエムが来年の3月で閉局するということを聞いた時、頭が真っ白になったのを覚えています。しかし考えてみれば臨時災害放送局自体がこんなに長く続いたのも普通ではそうあることではありません。
開局当時、「女川にラジオができた」という噂を耳にして、軽い気持ちで当時女川さいがいエフエムがあった女川第二小学校の校庭に顔を出したあの日が、僕のラジオの始まりだと思うと、、、本当に不思議な出会いだったと思います!

正直な話、震災前まで僕は自分が住んでいた女川町のことがあまり好きではありませんでした。 今では大好きな町なのですが、その僕の気持ちを変えてくれたのが町民やリスナーの皆さんでした。取材をしていく中での新しい発見・伝えることの難しさなど数多くのことを教えていただきました。
ありがとうございました!

そしてこのエフエムに関わって、自分が本当にしたいことも見つけることができました。
上京する時も、女川を離れることが「悲しい」という感情が込み上げてきました。
この「悲しい」という感情を持てたことが何より自分は嬉しかったのを今でも覚えています。それ程、女川町が大好きになっていました。

その大好きな女川町から発信していた女川さいがいエフエムが来年3月で閉局。
たくさんのことを教えてくれた女川さいがいエフエムの力に少しでもなりたいっ。ということで、いきなりなのですが

来年1月~3月まで女川に帰り、パーソナリティやお手伝いをさせて頂くことになりました。
最後の3ヶ月ということで思いっきり走り抜けたいと思いますので、みなさんよろしくお願いします。

「おながわなう。」パーソナリティ 阿部真知子(あべ・まちこ/まっち)

2014年11月に女川さいがいFMのメンバーに入り、復興へと突き進む女川町、そして女川町民の方々と接してきました。

私は生まれは女川・5歳まで女川に住み、現在は石巻に住んでいます。
恥ずかしながら、女川さいがいFMは、「あるらしい」という程度でした。

まずはFMの成り立ちや支えてくださっている方々の事を知ることから始まりました。
そして、ラジオを聞いている町民の方々が、今何を知りたいのか。
今何を伝えるべきなのか、今何が必要とされているのか、常に「今」を考えてきました。

その中で難しいと感じたのは、「女川町で生活している」町内の方々に向けた放送と、「女川町に来て下さい」と町外に向けた放送のバランスでした。

もちろん一番大切にしていることは女川町民の方々に向けた放送です。
その一方で、時間が経ち風化という言葉がちらつく中、震災から復興へ進んでいる女川町の「今」を伝え、魅力を伝えられるのは自分たちだという気持でも放送してきました。

私がFMに入ってから一年5か月という短い間でしたが、この時間はとても濃く、刺激的な毎日でした。
町内を歩いては声をかけ、声をかけられ、他愛もない会話からこぼれる愚痴や喜びをを拾い、受け止め、町の状況とともにその声を住民の声として伝え、時に自分の言葉に変えて発信してきました。

町内の方々はもちろんですが、全国で聴いて下さっている大切なリスナーの皆さんにも、本当に感謝しております。
新しく入った私を温かく迎えてくださり、本当に嬉しかったです。
世の中にはこんなにも「熱い」人がいるのか!と何度思ったことか・・・・・。
FMが無ければ出会わなかった多くのみなさま、本当にありがとうございました。

しかし、これで完全に縁が切れるわけではありません。
これからも何らかの形で女川町に関わっていきたいと思っています。
女川さいがいFMでつながった出会い、ご縁を大切に、今後に生かしていきたいと思います。
これからもいつも通り女川町で待っています!!!

「おながわなう。サンデー」パーソナリティー  阿部紗季(あべ・さき/ざき)

みなさんお元気ですか??
阿部紗季です。
なーんて、敏郎先生の真似っ子してみましたよ。
みなさんも知ってる通り、3月で女川さいがいFMは終わります!!
まあビックリ!!!
って方も多いですよね??
実際わたしもその内の1人です。
高校入学前に出会った女川さいがいFM
『休日の思い出ってなにかある??』
って聞かれたら、
『女川で食べたお昼ご飯!!』
って言えるくらいたくさん美味しいものを食べました。
そして、たくさんの人と出会いました。
この文を読んでるみなさんのことですよ!!
そして、ももいろクローバーZのみなさん。
その他芸能人の皆さん。
たくさんの方に支えられてここまで
体も心も大きくなりました。
このラジオがなくなるってことは一つの居場所が無くなってしまうってことだと思ってます。
辛いことだったりいいことだったり嬉しいことだったり。
いい思い出がたくさん詰まった女川さいがいFM。
でもあと3ヶ月あります!!!
あと少しの間、私達のことを優しく見守っていてください。

「おながわなう。」ミキサー兼パーソナリティ 石森 充(いしもり・みつる/モリモリ)

女川さいがいFMとの出会いは、まだ瓦礫が残る5月頃でした
町立病院は一階が津波の被害にあい、二階のフロアで仮設ながらも診療をしていた頃です。

当時、病院の警備員をしていたのですが、
出入り口の脇に一台のラジオがあり、いつも自分が電源を入れる役目だったのです。
病院の中に響く、楽しそうなお喋りと声、女川人だからこそわかる話題
避難所から仕事に通っていて毎日辛かったのですが、ラジオにずいぶん励まされました。
やがて失業を機に、リスナーから一転、FMのスタッフ・仲間にいれてもらいました。それから早3年、自分は誰かを元気づける放送ができたかなと思うと?ですが、最後まで頑張ります。

「産地直送!女川かこうけんラジオ」パーソナリティ 高橋正樹(たかはし・まさき)

誤情報や噂話で皆が振り回されていた震災直後、隣のラジオ石巻で震災前に6年ほど番組を担当していた私は情報共有の必要性を飢えに近い感覚で持っていました。
開局し、時が過ぎ、女川さいがいFMの役目は情報共有から情報発信のツールへ。
担当番組である『産地直送!女川かこうけんラジオ』はライフワークとなり、全国33局ネットで放送させていただくまでになりました。

女川さいがいFMに残された時間は僅かですが、最後の最後まで女川らしく全力を貫いて発信していきます。

「おながわなう。サンデー」パーソナリティー 阿部こころ(あべ・こころ/こころん)

女川さいがいFMがなくなってしまうのは寂しいですが、これも女川が新しいステップに進むための大事な一歩だと思っています。

私は子供の頃にも女川に住んでいたのですが、震災の影響もあり、小中学校は女川ではない学校で過ごしたので、女川さいがいFMに関わらせていただいてからやっと女川町の一員になれた気がして嬉しかったです。

高校生アナウンサーになって、まだやっと半年の新参者ですが、残り3ヶ月は何もやり残すことがないように、楽しみながら放送したいと思います。

「佐藤敏郎の大人のたまり場」パーソナリティー 佐藤敏郎(さとう・としろう)

「夢のような日々でした」

まるでホントのラジオ番組みたいですね、なんて自分でよく言ってました。
昭和の深夜ラジオを聴いていた私にとっては、夢のような2年間でした。
もうすぐその夢もさめるのですね(-_-)

当時の流行語やエピソードよく覚えてますねと言われましたが
話していると思い出すんですよね、青春時代の出来事は濃かったので
きっと細胞の一部になっているんでしょうね。
収録の度、青春を再発見してとにかく楽しかった。

それから、リスナーの皆さんからのお便りのなんと温かく、渋いこと。
さすがラジオ世代、心得ていらっしゃる!
読みながら声が詰まってしまうこともありました。
中高年は涙もろい。

自分自身を元気にする30分です!というセリフは
いかにもという感じで、最初ちょっと照れくさかったんですが
今はホントにそうだったんだと思っています。
女川町内外のリスナーの皆さん、FMのスタッフの皆さん
心から感謝しています。

ほとんど生活の一部になっていたので、お別れするのは残念です。
でも、終わりは始まり。復興が進んできた証でもあります。
最後まで、明るく、元気に、懐かしく、新鮮に頑張ります。

元「おながわなう。」パーソナリティ 宮里 彩佳(みやさと・あやか/さいじゅ)

ラジオを通じて沢山の女川の姿を届けさせていただきました。また、多くの方に出会う事ができました。町民だけでなく、町外の方にも興味を持っていただき、女川の未来に思いを寄せていただきました。本当にありがとうございます。

でも、まだまだこれからな女川です。引き続き見守っていただければと思います!

また私自身、新しい命を授かり、これから新米母ちゃんとして、未知の世界に入っていきます。(出産予定日は12月29日、FMの最終回には抱っこして参加できるかな?)

私が育った女川と今の女川は違いますが、これから自分の子供が育って行く女川、まちづくりにも参加して行きたいと思います。様々な場面でまた皆さんにお会いできる事を楽しみにしています!応援ありがとうございました!

これからも、ずっとみんなで「がんばっぺ!!」

元「おながわなう。」パーソナリティー 某ちゃん

こんにちは。女川さいがいFM元・高校生アナウンサー2号の某ちゃんです。
突然ですが皆さんは5年前、自分が何をしていたか覚えていますか?

5年って、小学1年生だった子は5年生になるし、
15歳だった人は成人を迎えるし。けっこう大きな時間の経過かもしれませんね。

自分はと言いますと、女川さいがいFMで高校生アナウンサーとして活動しはじめた時期がその頃でした。

「震災を風化させない」そして「元気な声を女川町内外に発信したい」そんな想いで全員が、ある意味意地で放送を継続してまいりました。

でも、女川さいがいFMの本当の役目は、ラジオの電波に乗せて日本中に、世界中に「女川」に興味を持っていただく種を蒔く。きっと、そういうことだったのだと思います。

なので先日女川さいがいFMの放送終了の連絡を受けた時、驚きや悲しみよりもまず先に「そういう時期が、ようやく来たんだな」と、安心しました。
「女川さいがいFM、お疲れ様」そんな気持ちでいっぱいです。

女川町の「今」を毎日発信する地元メディアの存在という意味でも、これまでラジオをお聴きしてくださった方々、そして遊びに来てくださった方々を思い出すと「FMがなくなるのはもったいない」という気持ちは私自身にもあります。
でも私たちが蒔いてきた種はそんなことでなくなってしまうものではないのだと、ちょっと強気に思っています。えっへん。

女川さいがいFMがなくなるということは、ある種一つの復興へのステップなのではないでしょうか。

これからは女川さいがいFMが蒔いてきた「女川」の種を、皆で一緒に育てていく時期に変わるだけなのかなという気がするのです。

自然災害によって失われた町は、今、人間の手によって新しく作り出されています。これからは一緒に、この種を育ててください。

最後になりますが、これまでラジオをお聴きしてくださった皆さま。様々なかたちでご支援やご協力をいただきました皆さま、女川さいがいFMに関わってくださいました、全ての皆さまに改めて感謝いたします。ありがとうございます。

花咲く春がいつ来るのかなんて誰にも分かりませんし、もしかしたら長期戦になるかもしれません。
なのでお互い無理はなく、ゆっくり、この種を育てていければいいですね。

んでまず!また、どこかで!

アナウンサー 阿部真奈(あべ・まな)

いつも女川さいがいエフエムを聞き、応援していただきありがとうございます。
今回の女川さいがいエフエムの終了発表に驚かれた方も多いと思います。
 
私がラジオの放送終了を電話で聞いた時、正直寂しさがこみ上げてきました。
このラジオ局との出会いがあったからこそ今の私があるといっても過言ではありません。それ位、私にとってこのラジオ局は大きな存在でした。

私は当時、東日本大震災でいわゆる震災孤児となってしまい、そのショックから立ち上がる事が出来ませんでした。
しかし、同じ避難所に身を寄せていた先輩(阿部レイナ)からラジオ局でパーソナリティをやってみないかと誘われた事で人生が変わりました。

ラジオの活動に参加し、放送でありのままの想いを話していると、避難所で生活するおばあちゃんから「あなたの放送を聞いて自分だけじゃないんだって思えた。大変だけど、一緒にがんばっぺ」と声をかけられました。
この時に「このラジオを聞いている人も私と同じように、家や家族を失い、同じように震災の痛みを持っている人達なのだ」という事が分かりました。だからこそ、これからの女川町を担っていく私が明るい希望の持てる放送をし、女川町全体を元気にしていかなければと思うようになりました。   

震災直後は私も悲観的になってしまっていましたが、ラジオに出会った事で目標を見いだし、「人々に希望を与えたい」、「町の人達にもこの放送を心のよりどころにして欲しい」と思えるように変わっていきました。

ラジオを初めて約5年ずっとこの想いを持って放送を続けてきました。だから今回のFM終了発表に私は「どうにかして続けられる道は無いのだろうか」と考えました。
しかし、女川さいがいエフエムは人手不足や資金面での課題を抱え、常にギリギリの状態で今まで放送を続けてきました。
その現実を知っていたからこそ「ラジオをする事が目的になってはいけない」と思いました。

だからわたしは今回のFM終了を前向きに受け止めています。

私はこれから、女川さいがいエフエムでの経験を活かし「伝える事」を仕事にしたいと考えています。
最近関東で生活をしていて、被災地のニュースを見ると「復興している」という明るいニュースばかりが取り上げられているように感じます。
しかし、現実はそれだけではありません。

私が進学の為に女川を旅立つ前、ご近所のおばあちゃん方から託された思いがありました。
それは「この被災地の現状を伝えてくれ、そして私たちがここで生きているという事を忘れないでくれ」というものでした。

私の祖母を含め、震災から4年半が経っても未だに多くの人が仮設住宅で生活しています。
そしていつになれば次のステップにうつれるのか、震災前のような暮らしが戻ってくるのかも「見えてこない」のが現状なのです。
しかし、メディアを通じて報道されてしまうと、どうしても情報が切り取られてします。

その事で、震災のことが忘れ去られていってしまうのが怖いのだと、あるおばあちゃんは言っていました。

震災が風化するという事は、被災地で暮らしている人達が生きているという事も忘れられる事と同じ事なのだと思います。
だから私は女川さいがいエフエムがなくなってしまっても伝える事を続けます。これが震災後支えてくださった方々への恩返しだと思っています。

女川さいがいエフエム終了まで残り3ヶ月。
私は、残された時間の中でリスナーの皆さんと共に悔いの残らないような放送をしていきたいです。
まだまだ伝えたい想いがあります。届けたい言葉があります。だから最後まで全力でマイクと向き合いたいと思います。

また、女川さいがいエフエムが無くなるからといって女川町が「復興した」という訳ではありません。
まだ復興と呼べるようになるまでには長い時間がかかります。だから復興の向こう側を見るまで、皆さんと一緒に最後の最後まで走り続けたいと思います。

女川さいがいエフエムは無くなってしまいますが、これからも女川町を、そして東北を一緒に盛り上げて行きましょう。
みなさん今まで支えていただき本当にありがとうございました。

新たなコメントが到着し次第、随時更新します。